人が死の淵にいるとき、最後まで残っている感覚は聴覚だという。
例えば長い間意識の戻らなかった入院患者に面会に来た家族が、励ましの声をかけ続けると奇跡的に目を開けたり、逆に「もう十分頑張った、楽にさせてあげたい」とこぼすとこれまでギリギリで保っていた生への執着がプツリと断たれたように死んでしまったり。
人の生死までも左右する聴覚の不思議。
映画「認知症と生きる 希望の処方箋」は、「がんと生きる言葉の処方箋」(2019年キネマ旬報 国内文化映画ランキング15位)に続く「処方箋シリーズ」の第二弾として今年8月に公開される。
認知症患者に音楽という手段で回復を目指す「音楽療法」の様を丹念に追ったドキュメンタリーである。
公開に先駆け、本作の監督を務めるヒューマンドキュメンタリーの巨匠、野澤和之氏にお話を伺った。
「怖がらなくてもいいんだよ」と伝えたくて
今回は「がんと生きる 言葉の処方箋」に続く「処方箋」シリーズ第二弾、テーマは認知症ということですが、野澤さんが癌や認知症にスポットを当てるのはなぜでしょうか?
今、日本社会は少子高齢化が進んでいます。子供達が産まれてこないと同時に僕らのような年代が長生きして、2025年くらいには75歳以上の高齢者が700万人に増えていきます。同時に並行して起こるのが、癌患者の増加。
癌はなかなか治らない病気ですが、最近は抗がん剤の進歩により、我々が長く付き合える病気になってきました。
同じように、認知症もまた高齢者の増加と共に増えていきます。認知症も実は特効薬がありません。しかし早期発見できれば軽度のまま食い止める方法もありますから、認知症と共に生きることができる。というのを事前に我々が知ると、高齢化社会をどう生きるのかが見えてくるんじゃないかと。
高齢化ゆえに人間が避けられない病気にスポットを当てて、「怖がらなくてもいいんだよ」というメッセージを映画という手段で伝えたいと思って作りました。
認知症には色々な治療法がある中、今回音楽療法をテーマに選んだのはなぜでしょうか?
認知症の映画っていうと死ぬまでを撮った悲惨なものとか、自分の親が認知症になってそれを撮った作品とか、あるいは介護がつらく苦しむ家族とか、そういう絶望的な作品が多い。
実際、認知症になってしまったら当事者や家族は絶望的になりますよね。進行を遅らせることはできても完治はしないんだから。
音楽療法にたどり着いたのは、僕が取材の過程で奇跡を見たからなんです。明らかに認知症の進行が遅れている。そういう新しい療法をみんなに伝えたいと思いました。
それから、認知症があってもその時々に楽しいことがあれば、それは認知症の人にとって幸せじゃないかと思って。
もっとびっくりしたのは、僕は癌と認知症、両方患っている人に会いました。彼らには癌への怖さがない。認知症で自分が癌だっていうことも忘れるから。これは不思議な現象で、そういうのもいいかなと思った。
そういう意味では、認知症ってある意味与えられた病気なのかもしれない。非常に認知症は哲学的だと思いました。
確かに、治らない病気になることって底知れぬ恐怖があると思いますが、分からない方が良いのかもしれませんね。
そういうことです。分からない方が幸せっていうか。
「死ぬのが怖い」っていうのがないですね。これにはびっくりしました。
だから僕、認知症に対して最初はネガティブだったけど、これは与えられた病なんだと思って。面白いでしょ。
人間の死への恐怖に対してね、忘れることで怖さをなくすという脳の仕組みなのかなあと思ってね。しかも治療法ないでしょ?不思議な気がしました。
近い将来、確実に死が待っているけれど、その間いかに楽しく生きるか……
そういうことです。
ひとりひとりに音楽を「処方」する
今回取り上げた音楽療法とは具体的にどのような治療法なんでしょうか?
音楽療法の始まりは第二次世界大戦の頃。負傷者の治療にあたったときに、偶々BGMをかけてたんだって。そのときの医師が、音楽を聴かせるとどうも患者達が安定していると発見して以来、研究されている治療法です。
具体的には例えば、ほとんどボーッとしているおばあちゃんに童謡の「めだかの学校」を聴かせると、ピクっと反応する。それから目が開いて、体がリズムを合わせる。
そのうち「め……め、だ、か」って歌い出す。もっとすごいと手拍子をする。
子供の頃に覚えた記憶があるんでしょうね。
そういうふうに段階を経て、脳機能が回復して口や体まで動かせるようになる。
それは、子供の頃から刻み込まれた記憶が蘇るということですね?
そう。見ているとびっくりするよ。奇跡が起きたかと思う。
西洋では、子供のときから教会に行くでしょ?アメリカの音楽療法では、讃美歌をかけると、患者が反応する。刷り込まれている音楽に反応するんだね。
音楽療法士はそれぞれのパーソナルヒストリーに適切な音楽を持ってくる。
音楽療法士は、患者さんそれぞれに合った音楽を「処方」していると。
そういうことです。老人ホームとかで「はい、みんなで歌いましょう」というものは音楽療法とは言わない。
それは映画を観たら「こういうことか」って分かってもらえると思います。
先ほど例に出た患者さんは処方された音楽を聴いたときは手や口が動きましたが、その後もキープできるんですか?
継続してやると、キープできる。最初は寝たきりだったのが一年後には歌えるようになった。不思議だね。
一年間取材して、重度のアルツハイマーだったけど、もう自分で歌って、簡単なコミュニケーションができるようになった。僕が行ったときには「こんにちは」とか。
でも「前に会った人だな」とまでは覚えてないですね。認知症治療は悪化するのを食い止めるけど、元通りに回復はしない。
取材は毎回楽しかったですよ。
楽しかった?取材中悲しい場面などはありませんでしたか?
明るくて良かったですよ。
今回出会った90歳のおじいちゃんは、毎回僕のことを他の人と勘違いするわけですよ。隣人であったり甥っ子であったり。で、僕もそれに乗っかって「はい、甥っ子の野澤です」とか挨拶して。
そこに悲しさはなかったですね。楽しかったですよ。
ドキュメンタリー撮影してるっていうのも分からないから、ずーっとカメラの方見ちゃうし。
毎回毎回「なんなんだろうなあ?」と思ってるんだろうね(笑)
ドキュメンタリー制作で一番大事なのは「何を撮るか」
今回主人公となった方はどんな方ですか?
音楽療法士の北村さん、赤塚さんという二人の女性が主人公です。二人ともお若いです。
明るくて、音楽を通して認知症の人をなんとか回復させようとして、一生懸命やってる真摯な方々でしたよ。素晴らしかった。
2人とも音楽大学の、音楽療法士のコース出身で資格も持っています。
しかし残念ながら、音楽療法士は国家資格とは認められていません。
せっかく良い治療方法なのに、受ける患者も健康保険が効きません。だから多くの病院ではまだやってないし、日本ではまだあまり知られていない。これは良くないですよ……今後日本中に広がっていってほしいと思います。
今回は認知症のドキュメンタリーを撮ろうと決めてから、どういった経緯で主人公となる人に辿り着いたんですか?
「Dカフェ」っていうのが全国にあります。認知症は英語で「ディメンシア(Dementia)」っていうのね。認知症の人とその家族が集うカフェを「Dカフェ」っていうの。
色々なコミュニティがありますね。自らDカフェに行ってお話を聞いてきたんですか?
はい。撮影は1月からだけど前の年の夏からロケハンで全国のDカフェ、病院を回りました。
認知症をテーマにどんな映画を作るか考えて、色々な現場に行ったけど、どうも腑に落ちない。嫌だなあ……って。結局、認知症って悲しいでしょ?苦しくて、そういう悩みばっかりじゃないですか。この映画は「明るく生きる」っていうテーマにしたかった。
それで、あれこれ本読んだり勉強したりした中で「これなら行ける」と思ったのが音楽療法でした。
その後は、音楽療法をやっている全国の病院や施設を回って、今回の主人公2人に出会いました。
自分の足で、直接現場を回って探すんですね。
そう。出会えたら後はもう作るだけでしょ。ドキュメンタリーを作るときの一番のポイントはここなの。これが映画の6割。「何を撮るか」
患者さんのために一生懸命な姿に、感動しました
撮り始める前の人とのコミュニケーションに重きを置いていると。今回の、北村さんと赤塚さん。この人たちは行けるなと思った根拠はありますか?
直感でわかった。
直感?
うん。彼女達が真剣にやってる姿を見て、なんと説明したら良いのか自分でもわからないけど、ああこれは行けるって勘で思った。
やはり長年の経験でしょうか?
経験っていうか……若い時もそうだったよ。勘が当たる時も外れる時もある。
いくつになったって人を見る目は変わらない。
あなたもそうでしょ?「なんかこいつ嫌だな」とか「この人は良いな」っていうのあるでしょ。そんなの直感じゃない?
「この人見てると面白いかも」という好奇心が湧いてくることはあります。
そうそう、それだけでいい。あとは本物に会えたら嬉しいね。
本物というと?
自分の信念を貫いてる人だろうね。自分の生きる信念に基づいて、真っ直ぐに生きている人に会ったら、ßドキュメンタリーとして良いな、撮りたいなとよく思いますね。
今回の音楽療法士の北村さん、赤塚さん。彼女達にはどのような信念を感じましたか?
彼女達は若いのでね、生き方はまだ卵の状態。始まったばかりです。
ただ一生懸命、患者さんのために真摯にやってる姿に、僕は感動しました。
今作はどんな人に、誰に見てもらいたいですか?当事者家族なのかあるいは……
もちろん当事者もだけど、音楽の力を信じている全ての人に見てもらいたいです。
これは認知症の映画であって、音楽の映画でもあって。
映画の最後に「音楽には、希望をもたらす力が宿る」という言葉を入れました。
これが映画のテーマ。
だから、音楽を愛する全ての人に見てほしいですね。
新作情報
野澤監督の新作ドキュメンタリー映画「認知症と生きる 希望の処方箋」は新宿武蔵野館他にて8/11(金)から劇場公開!
さらに、新宿東口映画祭2023にて特別上映決定!
公式HP:https://www.ninchishoutoikiru.com
次回のインタビュー第二弾では、ドキュメンタリー監督として長年活躍してきた野澤監督のバックボーンを深くお聞きしていきます。お楽しみに!
野澤和之
1954年生まれ、新潟県出身。立教大学文学部大学院修了。
文化人類学を学んだ経験から文化社会の周縁にいる人々を描いた作品が多い。
在日韓国人の半生を描いた「HARUKO」、フィリピンのストリートチルドレンを描いた「マリアのへそ」(SKIPシティ国際Dシネマノミネート)両手両足のない女性中村久子を描いた「生きる力を求めて」(文部科学省選定)、瀬戸内海に浮かぶ島のハンセン病療養所で暮らす夫婦の愛の物語「61ha絆」(文化芸術振興費補助金・文部科学省選定)、「がんと生きる言葉の処方箋」(文部科学省選定・厚生労働省推薦作品)他。
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