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LIFE PICTURES

イヴ・サンローラン 知られざる美の真髄

イヴ・サンローランとは何者だったのか

まずは謝りたい。私はイヴ・サンローランというブランドを見くびっていた。ナメていた。

だってだって、子供の頃家に送られてきたお中元(貰っても特にやったー!となることはない、不要な風習)は「YSL」のロゴが入ったタオルセットだったし、他のハイブランド、ヴィトンやエルメスやシャネルはお中元で贈るような箱に入ったタオルなんか、まず出さない。父の取引先のおじさんから頂いた微妙なタオルセットが、まさか世界的なデザイナーの手がけるブランドの品だとは思わないじゃないか。

そんな幼少期の記憶のせいもあり、イヴ・サンローランは まあ有名だけど大したブランドではないな、というイメージが私の中にずっとあった。

ところが2023年の秋、国立新美術館で開催された「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」を見に行くことになり、事前に予習して行こうと本やネットでイヴ・サンローランのことを調べた際、あのクリスチャン・ディオールが後継者として認めたという素晴らしい才能と、美を追求したドレスのデザインに圧倒された。

実物が見たい!サンローランという人物をもっと知りたい!

「イヴ・サンローラン展」にて展示された服やデザイン画、写真を見て回るのは、女性の美とは何か?を探し求めて深い深い海に潜っていくような体験だった。一点一点の服に、迫力がある。何十枚、何百枚ものスケッチには目眩がするほどで、全ての展示を見終わった頃にはヘトヘトだった。

サンローランがここまで美にこだわるのは何故だったのか。彼がアウトプットしたモノだけでなく、内面も知りたくなり、ドキュメンタリー映画を探して観ることにした。各サブスクで探したもののなかなか見つからず、やっと中古DVDで入手することができた。

2010年のフランス映画「イヴ・サンローラン(原題:Yves Saint Laurent – Pierre Bergé, l’amour fou)」ブランド公認のドキュメンタリーである。

原題の「Yves Saint Laurent – Pierre Bergé, l’amour fou」は日本語に訳すと「イヴ・サンローランとピエール・ベルジェ、狂気の愛」となるのだが、はて、狂気の愛とは?

あらすじ

2002年。フランスのファッションデザイナー、イヴ・サンローランが引退を表明。約50年もの間「モードの帝王」として君臨してきたサンローランは、精神的に不安定になったこと、酒とドラッグに逃げたこともあったと吐露しながら、「人生で最も大切な出会いとは、自分自身と出会うことなのだと知りました」と記者会見で語る。

引退して間もない2008年に死去。「国宝級のデザイナー」の死に国中が喪に服した。葬儀で静かにスピーチをする一人の男性。

サンローランを公私ともに支えたパートナー、ピエール・ベルジェだった。

ベルジェは、二人で暮らした家にある膨大な数の美術骨董品を全てオークションにかけることを決意する。

業者によって美術品が運び出されていき徐々に空っぽになっていく部屋の様子と、生前のサンローラン本人の映像や写真が画面に映し出されながら、ベルジェはサンローランという人物と、二人で歩んできた人生について語り始める。

「イヴ・サンローラン(原題:Yves Saint Laurent – Pierre Bergé, l’amour fou)」予告編

「病的な天才」を50年支えた恋人

1955年。当時のフランスを代表するデザイナーといえばクリスチャン・ディオール。サンローランはディオールにその才能を見出され、18歳の若さでディオールの弟子としてモードの世界に飛び込む。

ところがわずか2年後、ディオールが死去。若きサンローランは後任としてDiorのコレクションを任され、大きなプレッシャーに苛まれる。

サンローランの友人たちは、インタビューで皆一様に彼のことを「病的なほど内気」「生まれながらの憂鬱な性格」と語る。

しかし、服作りに関しては狂気を感じるほどの情熱を見せたという。これは彼の死後遺された何万枚ものデザイン画からも見て取れる。

弱冠21歳にして、彼の手がけたDiorのコレクションは大成功。マスコミは「イヴ・サンローランは偉大なるDiorの伝統を救った」と大絶賛した。

支えとなったのは、生涯彼の仕事をサポートし、恋人でもあったピエール・ベルジェの存在。

同性でありながら惹かれ合い、「例えようもないほどイヴを愛していた」と語るベルジェ。50年もの間、二人を固い絆で繋いだものとは?

「美への執着」で結ばれた絆

サンローランは世の女性たちに対し、信仰ともとれる程の尊敬の念を抱いていた。女性を完璧なミューズたらしめる為の美しい服作りこそが、彼の仕事の根底にはある。これは師匠であるクリスチャン・ディオールも同じ思いだったはずだ。生地を贅沢に使ったフレアスカートに、ウエストがキュッとくびれたディオールの代表作「ニュー・ルック」からも伺える。

(ちなみに同じ時代に活躍したデザイナー、ココ・シャネルは二人とは対照的に女性を前時代的で窮屈な「女らしさ」から解放する服作りをしていた)。

この映画の主な語り手であるサンローランのパートナー、ピエール・ベルジェ。語り口は落ち着いており、時折比喩も取り入れ、知的な印象を受ける。

彼は芸術に関心を持ち作家を志してパリに出てきた若者だった。しかし人並外れた審美眼を活かして実業家としての手腕を発揮し、サンローランが作り手に専念できるよう経営者として実務的な役割を全て担った。

内気で繊細な芸術家タイプのサンローランと、社交的でビジネスの手腕に長けるベルジェ。

正反対の二人だが、どちらか一方が欠けると「イヴ・サンローラン」というブランドはここまで大きく成長できなかっただろう。サンローランはベルジェについて「私にはないものを全て持っていた」と語っている。二人は互いの足りないものを補い合い、尊敬し合って二人三脚で歩んできたのだ。

その二人を固く固く繋いだ共通項は、「美しいもの」への尋常ではない執着である。

二人は一緒に暮らし始めてから、「一目で恋した」という絵画や家具、骨董品を次々に購入し、家に飾った。ドキュメンタリーの中で実際の部屋の様子が写されているが、さながら美術館か映画のセットのような「美」に囲まれた空間である。「美術品がない生活なんて、我々には耐えられないだろう」とベルジェは語る。

先ほど記した互いに尊敬し合い補い合う関係だけでなく、「美しいもの」への執着と、理想のミューズを探し求め長く出口の見えない旅を共にする運命共同体とも言える関係が、サンローランとベルジェを50年もの間繋ぎとめたのだ。

「YSL」タオル問題

サンローランが引退を考えるきっかけになったのは、プレタポルテ(大量生産の既製品)が台頭し、営利主義と化したファッション業界に失望したからだろう。

映画の中でも、若者の社会運動が活発化した影響から「お金のない若い人でも好きな服を着て幸せになれるように、プレタポルテを始めます。・・・嫌だけど」と語り、「オートクチュール(※)は死んだ」というメッセージを込めた攻撃的なデザインのコレクションを発表している。

営利主義といえば、イヴ・サンローランは過去に日本の会社とライセンス契約を結んでいた時期がある。

ライセンスとは、日本のメーカーがブランド側の許可を得た上で、デザイナーが全く関わらない所で作った商品にイヴ・サンローランの名を冠して売っても良いよ、という契約である。

安価で、ブランド名が刺繍されているだけで、特にデザイン性が高いわけでもなく、サラリーマンのおじさんがお中元に送ってきた、なんとも微妙な、あのタオル・・・!

あれがまさしく、営利主義に走ってサンローランを失望させた原因のひとつだったのではあるまいか・・・?

実際、私自身もお中元タオルの件のために幼少期からずっと、イヴ・サンローランはまあ大したブランドではないな、と思い込んでしまっていたわけだし。

オートクチュールは死に、世の中にはファストファッションが蔓延っている。

ここで、コムデギャルソンのデザイナー・川久保玲氏の言葉を記しておきたい。

「990円で売っているジーンズなんてあり得ない。それを作る過程のどこかで誰かが泣いているかもしれないのに」

泣いているのは、安い賃金で働かされている作業員か?サンローランのように「美しい服作り」に人生を捧げたデザイナーだったのか?

今着ている服が自分の手元に届くまでに、どんな人たちが関わってきたのか?たまには思いを馳せてみるのも良いかもしれない。きっと、その服がもっと大切になるから。

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