#01 テーマ探し
サーフィンって何?
サッカーはスポーツだ。疑いの余地はない。テニスもスポーツだし、バスケもスポーツだ。当然。では、サーフィンはどうだろう?東京五輪で追加種目になったことでスポーツと答える人も多くなったかもしれない。でもそれ以前は、サーフィンをしない多くの人にとって「趣味」という認識だったと思う。「遊び」と答える人もいるかもしれない。僕は21歳でサーフィンを始めた。当時の僕にとってサーフィンと言えば、モテるためのファッションだった。ロン毛で色黒で、ちょっと不良な男たちが車の屋根からサーフボードを下ろして颯爽とビーチへ向かう。砂浜には水着の女の子がたくさんいて…。サーフィンを始めた動機はかなり不純。でも、そんな僕がサーフィン映画をつくるに至った経緯には、深い理由がある。
21歳で渡米し、ロサンゼルスのカレッジで映画制作を学んだ。演出から照明の使い方、脚本、著作権に至るまで一通りを学んだ。毎日大量のホームワークで休む間もない学生生活。せっかくLAに来たのに、ずっと建物の中にいる気がしていた。それで始めたのがサーフィンだった。埼玉生まれ埼玉育ちの僕にとって海は憧れだった。
やってみると想像を絶する難しさに心折られた。まず、沖に出れない。次々に迫り来る波に押し戻され、全く前に進まない。3〜4つの波にひっくり返されると、あっという間に体力はエンプティー。やっとの思いで沖へ出ても、大きな波に飲まれて海底に引きずり込まれ、息絶えそうになりながら水面に顔を出した途端に次の波に巻かれて、砂浜で体育座りだ。
チューブなんて夢のまた夢だし、モテるどころじゃない。波に乗れるようになるのに1年もかかったが、最初の波は今でもはっきり覚えている。
朝陽が昇るちょっと前。月明かりに照らされた波が沖から何本も迫っていた。上手いサーファーに波を譲ってもらえないから、一番奥の岩があるところからテイクオフ。目の前で水面から岩が顔を出したが、一向に上手くならない自分に腹が立っていてヤケクソだった。次の瞬間、サーフボードが波に噛む感覚。安定。一直線に波の斜面を駆け抜けた。波が崩れる轟音がすぐ後ろに迫るのが聞こえたが、追いつかれることも離れることもない。右手を伸ばすと巻き上がる波の壁を触ることができた。何もしなくても波が僕をどこまでも連れて行ってくれた。今までに感じたことがない、自然の一部になったような感覚。頭くらいあった波が最後には膝くらいになって、そっと終わる。再び沖へ向かいながら次の波に乗ってくるサーファーを見た時、ようやく分かった。これがサーフィンかと。
生まれて初めて、何かにハマった。それから毎日海へ通った。夜型から朝型に代わり、自然を求めるようになった。長期休みにはメキシコからサンフランシスコまでにサーフトリップに行った。もはやサーフィンはモテるためではなく、内省的なものへと変化していた。波に乗っている感覚を留めたくて絵を描くようになり、カメラで記録するようになった。伝えたいものができたことで、映像に対しても本気になった。
せっかくハリウッドで映画製作を学んだのだから、ビッグ・ウェンズデイのような世界に通用するサーフィン映画の金字塔をつくろう考えた。
究極の問い
帰国後、湘南に移住。作品のテーマを探すことになるのだが、そのためにはまず自分自身がサーフィンを知る必要があった。サーフ誌やWSL(世界プロサーフィンツアー連盟)のカメラマンをしながら、サーフィンに対する認識を深めていった。
サーフィンには多様な側面がある。趣味や遊びであることも確かだと思う。波に乗る感覚は快楽だからだ。スポーツの側面ももちろんある。世界大会で繰り出される革新的な技は見応えがあるし、試合ならでは駆け引きにはドラマがある。しかし、サーフィンはもともと競い合うことを前提に作られた競技ではない。それゆえに、コンペティションとは真逆の側面がある。試合では点数にならないけど、より自由で自己表現を主とする「スタイル」を追求する人々だ。そこで育まれた価値観や新たな技が世界大会に取り入れられることもあり、自己表現のサーフィンと競技サーフィンは裏表の個性のように一つのサーフィンの中で作用しあっていた。
波に乗るフィーリングを歌や絵で表現する芸術文化があるのはかなり特異な側面だと思う。ジャック・ジョンソン、Def Techなど有名なサーファーミュージシャンは数知れず。カリフォルニアのサーファー、タイラー・ウォーレンが描く絵は世界中で取引されるほど。こうしたアートの側面を持つのはサーフィンくらいだと思う。
日常を波に合わせている一部の人々にとって、サーフィンは文化でもあった。グラウンドに行けば必ずできる他のスポーツと違い、サーフィンは波があるタイミングに合わせなければならない。だから彼らは自然のリズムに合わせて生活をし、独自の仕事を生み出してきた。例えばボードを作るシェイパーであり、ウェットスーツを作る職人だ。ライディングを記録する写真家が現れ、雑誌が生まれた。サーフィンをするのに快適な服を作るアパレルはたくさんの有名ブランドを生み出し、今ではサーフィンをしない人も着ている。そうやって彼らは自分たちで経済圏を生み出し、好きな時に波を追いかけていた。まるで部族のように。
彼らは海の外でもサーフィンを体現していた。生活の中心には波があるから、生活はとてもシンプルで、自然に逆らうことを嫌った。そのために社会から孤立した世代もあったと思う。それでも海を愛し、地球のリズムを感じながら生きていた。破滅に向かうサーファーもたくさん目の当たりにした。波を求めるあまり排他的な生活に陥ってしまう人々だ。波には愛されても生活はデタラメ。でもそうした生き方にすら儚い美しさがあった。様々な側面に関わり、感じながら少しづつ自分の中で考えが熟成し始めた時、改めて考えてみた。
サーフィンとは何か?最初の問いに戻る。その答えを見つけることがこの作品のテーマだと考えた。
そう思った時、被写体は一人に絞られた。
つづく…