冤罪に苦しみながらも生き抜くことを諦めなかった58年
釈放当日、世紀の瞬間の舞台裏を撮った一台のカメラがあった
2014年3月、東京拘置所。死刑囚の袴田巖さんが、突如釈放された。1966年6月に静岡県で味噌会社専務一家4人が殺害され、放火された事件の犯人とされ、47年7ヶ月もの獄中生活を送ってきた。明日突然、死刑が執行されるかもしれない。そんな恐怖の日々をくぐり抜け、30歳の青年は78歳になっていた。着の身着のままワゴン車で東京拘置所を後にした時、本作監督の笠井千晶が助手席でまわすカメラが捉えたのは、まるで夢から覚めたような袴田さんの表情だった。死刑囚が再審開始決定と同時に釈放されるという、驚くべき事態を当日のニュースは劇的に報道した。その夜、半世紀近く引き裂かれていた姉と弟が枕を並べた。拘置所の壁に隔てられ、想像を絶する苦難を生き抜いたものの、奪われた時間は戻らない。なぜこれほどの試練が与えられなければならなかったのか。言葉にしがたい悲しみや喪失を2人の寝息が静かに包み込む。さらに続くことになる司法との闘いを覚悟しながら、カメラは2人の生活を記録し、対話を重ね、袴田さんの心の内面深くに迫っていく。
(公式HPより)
袴田事件とは?
1966年6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、全焼した民家の焼け跡から刃物で刺された、味噌製造会社の専務一家4人の遺体が発見された。強盗殺人、放火などの容疑で逮捕されたのは、住み込みの従業員の袴田巌さん。背景にあったのは、「元プロボクサーならやりかねない」という偏見。拷問を伴う長時間の取り調べにより「自白」を強要させられた。裁判では一貫して無罪を訴えたが、1968年静岡地裁で死刑判決、1980年最高裁で死刑判決が確定。獄中から無罪を訴え続け、2014年に再審請求が認められ、釈放された。静岡地方検察庁による即時抗告、「再審開始取り消し」を経て、2023年再審公判が始まり、2024年9月26日には無罪判決が出された。死刑囚の再審無罪は1980年代に4例あるが、それ以降一度もない。「袴田事件」の行方は、死刑制度の是非と共に世界的に注目を集めている。
(公式HPより)
この事件の出来事は記憶に新しい。2024年9月26日に出された無罪判決がメディアによって大々的に取り上げられ、多くの国民が彼の逆転劇を知ることとなったからだ。この映画は冤罪で死刑判決を下された袴田巌さんが突如、釈放されるシーンから始まる。多くの国民が彼の釈放を祝福する中、袴田巌さんだけがその現実に対して直視できずにいるようであった。彼の目に映る景色は58年前のものとは違う。そんな彼の様子は目まぐるしく動く時代の流れをただひたすらに眺めているようにも見えた。そんな彼の横に腰を据える姉・袴田秀子さんの存在もこの映画には欠かせない。彼女の存在無くして、彼の人生は語れないからだ。このドキュメンタリー映画は事件の真相を追うのではなく、58年という失われた長い年月を袴田巌さん自身がどう受け止め、どのような信念を持って生きてきたのかを詳細に描いた記録映画とも言える。そんな彼の生き様は言葉ではなく、身体に宿っているように見えた。一見すると理解不能な彼の言葉や行動も、映画が進むにつれて意味を持ち始めていく。彼は何を信じ、誰を疑えばよかったのか。
祈りと庇護
映画のタイトルにもある通り、彼は絶えず祈り続ける。これは罪のない私が与えられた務めなのだ、そう言って彼は再び歩き出す。そんな彼の言葉に耳を傾け、その身を捧げる姉・秀子さんはいつも笑っている。失われた膨大な時間の裏ではそんな秀子さんの支えもあった。家族といえど、他人。されど、家族。彼自身の苦しみは計り知れないが、家族である秀子さんは彼の思いに全力で応えようとしていた。88歳になってしまった巌さん。共に過ごすことができる残りの人生はあまりに短いが、無罪を主張し続けた彼の生きる闘志は今の秀子さんに受け継がれているようにも見えた。二人は今日もこの世界で生きている。明日の平和を祈りながら、今日も巌さんは走り続けていることだろう。
死刑制度の是非は今もなお、世界中で活発に議論されている。国家によって、市民の命を奪ってもいいのか、そんな意見がある一方で、死刑の威嚇によって、犯罪を抑止・根絶することができるという意見もある。死刑制度についてはさまざまな意見があるため、気になった方は調べてみてはいかがだろうか。
↓(法務省HP「死刑の在り方についての勉強会」報告書 平成24年3月9日)