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LIFE PICTURES

【感想レビュー】「恋するピアニスト フジコ・ヘミング」

公式サイトより

フジコとの出会い

 フジコヘミングの名は20年以上前から知っていた。だが当時のドキュメンタリー番組や管野美穂がフジコを演じたテレビドラマは見ていない。見ようとしなかったのではなく、向こうがやってこなかったのだ。映画とか番組とはそういうもの・・・自分が見るべき絶妙なタイミングで、自分のもとに飛びこんで来るものなのだと思う。

 フジコのことが気になりだしたのは、2022年の暮れに『ショパンの面影を探して 〜スペイン・マヨルカ島への旅〜』というドキュメンタリー番組を見てからのことだ。だがその時はピアニスト、フジコがお目当てだったわけではなく、「大好きなマヨルカ島の旅番組をやってるから見ようかな」という軽い気持ちだった。番組は90歳になったフジコが、敬愛するショパンが恋人のジョルジュサンドと逃避行したマヨルカを訪れ、ショパンが滞在した教会で小さなコンサートを開くというストーリーだった。その合間合間に、フジコの生い立ちから不遇の欧州時代、母の死を契機に帰国し、60代後半でいきなり脚光を浴びていまに至る経緯を、紹介していた。

年明が明けた2023年、1月に横浜で開催されたソロコンサートと、その直後に古舘伊知郎がフジコと対談するドキュメンタリー番組を立て続けに見た。対談の中で古舘さんが「僕は先日のコンサートとフジコさんの映画を見て、フジコさんの魔法の箱の中に足を踏み入れてしまった」と言ったので、すかさず『フジコ・ヘミングの時間』をネットで探して見た。そして映画を見終わった時、私はすっかりフジコの虜になっていた。幼い頃より「楽譜どおりに弾くより、歌うように弾きなさい」と教えられ、自分のものにした艶やかな音色のピアノはもちろんだが、苦境の中でも誰にも媚びることのない、それでいて生きるものすべての慈愛に満ちあふれた生き方に惹かれたのだった。映画の中でフジコは、「自分が成功する場所はずっと天国だと思っていた。(その後、幸運にも有名になったけれど)この世の中は(戦争とか)嫌なことばかりだから、早く死にたい」と語った。それから1年、フジコは天国に旅だった。

 フジコ・ヘミングはスウェーデン人画家のジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとピアニスト大月投網子を父母として1931年12月にベルリンで誕生した。帰国して日本で弟が生まれるも、父は母国に戻り、それ以来、会うことは無かった。5歳より母の手ほどきでピアノを始め、レオニード・クロイツァー氏に師事。17歳でデビューし、東京藝術大学卒業後、28歳でドイツに(無国籍だったため難民パスポートによって)留学した。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業後、バーンスタインやブルーノ・マデルナらから才能を認められて支援を受けるが「一流」を披露するリサイタルの直前に風邪から聴力を失う。失意の中、ストックホルムで耳の治療をしながらピアノ教師をして暮らすが、60代半ばで帰国。数年後に『フジコ~あるピアニストの軌跡~』というドキュメンタリーが放映されると、一夜にしてフジコブームが巻き起こる。CDアルバムは出す側から大ヒットを記録し、その後、20年以上に渡り、世界各地でコンサートを開催し、人々に感動を与え続けた。

フジコが教えてくれたこと

『フジコ・ヘミングの時間』と『恋するピアニスト フジコ・ヘミング』は、フジコが亡くなる前年まで続けられた音楽に留まらない芸術活動の源であるプライベートに光を当てた作品である。フジコは1年の大半を暮らす下北沢とパリのほか、ドイツやサンタモニカ、京都にも家を持つ。「自分でなく家を残したい」と語るように、そのどれもが人よりも長い時間を生きてきた古い家たちだ。家具は家の前に捨てられていたアンティーク、棚には「私の宝物」と愛おしむ少女時代の絵やお人形や思い出の写真、お気に入りのインテリアなどが所狭しと並ぶ。ピアノやソファの上では「この子たちが居なければ今の私はない」と言い切る愛犬や愛猫たちが、気持ち良さそうに寝息を立てている。「自分のピアノが好きなのよ、私はピアノを弾くように生まれてきた」と言うフジコは、辛い時も悲しいときも、自分の愛する空間でさまざまな夢を見てきた。そんなフジコを見ていると「生きるのに大切なのは、自分を好きでいること」だと教えられる。

上映情報
https://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=fuzjkofilm

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